院生日記

大学院生が綴る日記。日々考えること、お出かけした記録など

「「わかる」ということの意味[新版] 子どもと教育」を読んで

 

 

佐伯胖(1995)「「わかる」ということの意味[新版] 子どもと教育」を読みました。 

 

手応えを感じながら数式がわかる。別々に理解していたことが同じ意味を持つとわかる。同じ原理では説明できない二つの現象の謎がわかる。損得勘定ならわかるけど、同じ計算でもテストだとわからない。

同書では、様々な文章問題や具体的な教育実践における「わかる」を取り上げることで、子どもにとって「わかる」とはどういうことかを明らかにしています。また、周りの大人は「わかろうとする」子どもにどう関わっていけば良いかも書かれています。

同書で取り上げられた問題はおそらく全て正しい答えや説明がつく問題でした。算数の問題、理科の問題など。問題が与えられてから正しい答えにたどり着くまで、儀式のように解くのではなく、自分なりに納得のいく解き方をしましょう、ということが書かれていました。

 

私はこの本を読んで、社会科における「わかる」とはなにかを考えたくなりました。また、正解のない問題に子どもがどう挑んでいけば良いのかということを考えたくなりました。

素朴な疑問として、算数や理科のわかった!という瞬間を、国語や社会科でも提供できるのかがわからないです。現象を説明するための条件を統制できる算数や理科と違って、国語や社会科は簡単に条件を統制できません。例えば算数であれば池をぐるぐる回る兄弟や、同様に確からしい目を出すサイコロなど条件付けられます。一方、社会科で現実における社会課題を扱った場合、状況を説明する言葉は無数にあり、様々なことを知れば知るほどわからない・・・という状況になるかもしれません。算数や理科といったスタティックな科目におけるわかった!に対応するものが、国語や社会といったダイナミックな科目にあるのか。あるとしたら、共感する(様々な活動を通して登場人物についての理解が深まる)とか、ダイナミックな中にある法則性(繰り返される歴史)とかそういうものなのか。。

同書の最後の方まで読むと、どんな教科でも学問でも「わかろうとする」ことができると読み取ることができます。でも、私自身まだこの本について「わかった」とは言い難いですので、折に触れて読み直して、「わかり直し」ていきたいと思います。