院生日記

大学院生が綴る日記。日々考えること、お出かけした記録など

コミュニケーションを学ぶ授業

 

勝浦に行ってまいりました。いずれ記事にしたいと思います。家に帰ってぐっすりと眠ってしまい、更新が12時を過ぎてしまいました。

 

今日は教育についての記事を書きます。テーマはコミュニケーションを学ぶ授業です。先行研究ができていないため根拠が示されていなかったり、すでに同じような研究がなされているかもしれません。ですが今考えていることのメモとして書き綴ります。

 

一般的にコミュニケーションを教える授業は国語を中心に行われていると考えられます。もちろん他の教科でも言語活動の充実は目標の一つに掲げられています。こういった教科で想定されているコミュニケーション能力とはどういうものでしょうか。

 

例えば、コミュニケーション能力の最もわかりやすい分類として話す力、聞く力、書く力ということができます。他にもプレゼンテーション能力、議論する力、まとまった文章を構成する力、批判的に文章を読む力など様々な言い方ができると思います。

 

こういう分類をする時、コミュニケーションする相手とはどのような相手を想定しているのでしょうか。小学生同士であれば友達・先生。中学生であれば友達・先輩・大人。高校生であればそれらに加えて面接官などの進路に関わる大人が想定されます。しかし、想定されている相手は、非常に乏しい想像力の中で限定されているということはないでしょうか。

日本語を話せない相手はどうでしょう。英語を勉強している、アプリで翻訳できるという声が聞こえてきそうです。それでは日本語を話しているけど聞き取りづらい相手はどうでしょう。昨日勝浦にて地元のおじいちゃんが一生懸命説明してくれましたが、聞こえてくる単語をつなぎ合わせてようやく理解できるかたちでした。幼児もつたない言葉で懸命に言葉を紡ぎますが、理解しきれないときがあります。それでは、そもそも話すこと自体が困難な方はどうでしょう。もはや言語活動では捉えきれない部分もあると思いますが、多様性を尊重する教育であれば、想定されるコミュニケーションの在り方も増えるはずです。

 

コミュニケーション能力を論理的思考力、伝達力といった言い方をする方もいますが、分かるようでよく分かりません。建前では考えの異なる他者との理解を深めよう、などと言いますが、他者同士が理解しあうことは至難の技ですし、大抵妥協によって理解し合っていることにしているというのが現状だと思います。

 

コミュニケーションを拒否される場合もあります。引きこもりをする息子、告白して振られた大学生、喧嘩中の友人、有給をとらせてくれない上司…。綺麗事ではすまされないコミュニケーションが世の中にはたくさんあります。もちろんそうした難しい状況を授業で扱うべきだという主張ではないのですが、あまりにも整えられた状況・ありきたりの相手しか想定できていないのはコミュニケーションを学ぶ授業としては物足りない感じがします。

 

あまり言いたいことを言い切れていない感じがしているのですが、考えが整理できたらまた書きます。次回は、授業者の在り方を検討してみたいと思います。